一年中を通じて薄暗い雲に覆われ、吹き付ける風は湿気を帯びて粘ついている。
トラメディノ湿原はその独特の陰気な気配からそこを通る旅人も少なく、フロージスへと続く道にも日が落ちる頃には人影がはた、と途絶えてしまう。
死霊が漂い常にぬかるんだその地に足を踏み入れる者は、噂を聞いてロザリアの隠し財産を狙う盗賊か、知る人ぞ知る、湿地の魔女の作る『薬』目当てでその住みかを探す者だろう。
魔女の正体も名前もはっきりとは分かっていない。そんなあやふやな存在を求めて危険な場所に人が訪れるには訳がある。
魔女の作る薬には、どんな魔導師や医師にも出来なかった『不死者』を創造することができる、という噂が立った為である。
欲に駆られた一部の人間達が、やがて訪れる死を恐れて魔女の持つ力にすがったのは言うまでもない。 魔女の持つ能力は信頼できるものらしいが、実際その効力にあやかった人間から魔女の事を詳しく聞くことはできなかった。なぜなら、魔女に関わった人間は皆、彼女の話になると口を噤んでしまうからだ。そのやり取りの過程を『思い出せない』という者までいる始末だ。
今日も今日とて、あやかしの沼に訪れる者が居たようだ。
光が欠片すら差し込まない雲からは絶えず大雨が降り注ぎ、沼の泥に足を取られつつもその人物は前に進んでいた。
男はその鋭い眼光で、闇の中でも目的地がはっきりと見えているようだった。
雨風に乗って明らかに雨の音とは別の、生ぬるい死霊の声が男にまとわりついたが、何時の間に抜いたのか腰に携えた刀を一閃させると、死霊はまっぷたつに裂かれて消えた。
後には耳障りなびちゃびちゃという雨音と、ぬかるみを歩く男の足音のみが残った。
*
外から見ると質素なさびれた作業小屋…。岩陰の影で殆ど目に付かない、そんなところにそれは在った。
外観からは想像も付かないが、中には怪しげな生き物が蠢くゲージや、見た目にも決してまともな物が入っていないであろう液体が入ったビン類が棚に所狭しと並んでいた。
部屋の中央にはゆらりと湯気の立った大きなツボ釜が置かれ、中には何かしらの液体が入っているのであろう、ボコッボコッと鈍いあぶく音が聴こえた。
その部屋の主人はどうしているかというと、静かにツボ釜の液体を覗いてはドロリと手にした柄杓で掬ってみせた。おそらく、常日頃からそうしているのだろう。その姿はあまりにもこの場所に似つかわしく様になっていた。この狭い室内で浮いたところがあるとすれば、主人の側で何やら怒鳴り立てているヒュムの青年の事だろう。
「なぁ、湿地の魔女。この通りだ! 以前に自分で頼んでおいて、と思われるのは知っての上での頼みなんだ」
青年は必死な顔で訴え掛けているが、当の湿地の魔女は素知らぬ顔だ。青年よりもツボ釜の中身の状態の方が気になるらしい。
「どうしてもフリメルダを元の人間に戻したいんだ!当時の俺は…本当にどうかしてたんだよ。アンタなら、助けられる方法があるんだろう?」
青年の名はご存知、ルク・サーダルクだ。自分の身勝手で己を愛してくれた女を生きる屍に変えてしまった男だ。
「おまえの怒鳴り声には聞き飽きたよ。あたしもそこまで暇じゃ無いんだ、帰っておくれ」
魔女はルクの方を見もせずに言い放った。その対応に頭に血を上らせたルクは魔女の両肩を乱暴に掴み、こちらを向かせた。
「美しかった若い女性が、見るも無惨にゾンビになってしまったんだぞ!まだこれから先に夢も希望もある人が。なんとかしてやりたいとは思わないのか!?」
「そうさせたのはおまえさん自身だ。忘れたとは言わせないよ?あたしはただ、単に頼まれたから仕事として薬を作ったにすぎない」
真っ向から迎え撃つその瞳と、明らかな正論にルクは思わず「グゥ…!」と言葉を詰まらせた。
正に、魔女の言う通りだったのである。返す言葉もない。
「自分の女が己より出来がよかったから気に食わなくて殺す…。しかも自分の手に掛けたくはないと、毒を盛るという卑怯な方法でな。こんどは恋しくなって元通りのものが欲しいという。おまえにとって、相手はお人形と同じなんだろう?飽きたら捨てる。…バカにするんじゃないよ、女は男の所有物じゃない。今のおまえは駄々っ子と同じ、なんて言ったら子供が気を悪くするね」
蒼白になったルクを見下げるように言った魔女は、その長い耳をぴくりと動かす。
「…やれやれ、今日は客の多い日だ。メツっとした話題も続くと食えないね」
小屋の扉がミシリと音を立てて開くと、とたんにどしゃ降りの雨が室内に流れ込む。
扉の外では雷鳴が轟き、扉の向こうで佇む男のシルエットを写しだしていた。
一一一その男こそが、ギィ・イェルギィその人だった。
「…お兄さん、どうしたね?こんなところに雨宿りかい?」
「いや。湿地の魔女、貴女に用があって来た」
ギィは濡れた身体も気にせずに魔女の側にゆっくりとした足取りでやってきた。その際、ルクの方にも一瞬チラリと見遣ったが、すぐに魔女の方に向き直った。
「失礼ながら先程2人が話していた内容、聞かせて貰った。…同じく剣聖フリメルダを元に戻す方法を教えて欲しいのだが」
ギィの言葉に魔女はツボ釜をかき回す手を止め、スっと目を細めた。ルクはギィの言葉に目を見開いて食って掛かった。
「どういうことだ?おまえはフリメルダの何だ!」
「何というものでもない。…ただ、以前彼女に救われた者の一人だ」
「フリメルダの現状を知って、恩返しのつもりか? 知らないのか、ここはそう簡単に要求を聞いてくれるようなところじゃない」
ギィはルクの言葉にも動ずる事なく、ただ、魔女の鋭い視線を真っ直ぐに見つめ返していた。魔女はそれに応じてギィに語った。
「お兄さん、確かに人を滅ぼそうなんて奴はロクな奴じゃないと思うがね、どういう理由であれ生き返らせようというのも同じく罪深いもんだよ。たった一人の意図で人が死んだり、生き返ったり。そんなことが簡単に許されるもんじゃないんだ。神への冒涜なんだよ、コレはあたしにも言えることだがね」
「承知している。それ相応の償いは覚悟の上だ」
「誰かに救われた、位でそんなに恩を感じるものなのかい?」
「恩、以上に俺は彼女と剣を合わせたいのだ。彼女に生かされて、さらに自分の人間としての質を上げることができた今の自分を見て欲しい、それだけだ。そして、それには俺にとって何よりも価値がある。
…聞くところによると、湿地の魔女は事の善悪に関係なく条件によっては要求を聞き入れてくれるということだが?」
「…その通りだよ。では薬を作る為の条件を言おう。そっちのあんたもだ」
ニヤリとして含んだ言い方をする魔女に、条件によっては自分の意見も聞き入れてくれる、ということでルクは身を乗り出して聞き入った。
「次の内、どれか1つでも支払えるものがあればいいよ。まず1つ、8桁オーバーの金を払って貰う。1つ、今まで生きてきた分の記憶を差し出して貰う。残り1つは、これから先の寿命を全て頂く…。どれがいいんだい?」
「バカな!むちゃくちゃだ!最初のはともかく、残りはアンタにとって何の利益があるっていうんだ!」
法外な要求に耳を疑ったルクは当然のごとく激昂した。
「俺がそんな金を持っているように見えるか?こっちが記憶を無くせば、フリメルダが元に戻っても仕方が無いじゃないか!それ以上に俺自身が死んだら、何の意味もない!」
ギィも魔女の要求を聞いて、腕組みして考え込んでしまった。そう簡単に答えが出せる選択ではなかった。
「いいんだよ、あたしは。払って貰えないのなら、女が死ぬだけだ。助けてやる義理もない。あんた達も災難だねぇ、ゾンビになった女に惚れてしまったなんて。そこまでして男どもに求められる女ってのも羨ましい限りだが、最も災難なのはそのフリメルダ本人だろうねぇ!」
黙り込む男達を余所に、魔女は彼等をあざ笑うかのように仰け反って笑い出した。
ルクは拳で壁を殴りつけ、行き所の無い怒りをぶつけていた。自分が一番悪いということがよく分かっているので、魔女にこれ以上言い訳するわけにはいかなかった。その拳は悔しさで血が滲んでいた。
「…俺がしてきた事を考えると、人に頼れるような立場じゃない。分かっていたんだ、分かって…。だが何とかしてやりたかったんだよ、あいつを!」
腹の底から絞り出すような声で言うと、ルクは魔女との交渉を諦めて小屋の扉を開いた。
振り向きざま、ギィと魔女に向かって言い放った。
「俺はまだ、あいつの為に出来る事がある筈だ!俺に出来る全てであいつを守ってみせるっ!」
ルクはまだ大雨降りしきる沼に向かって、駆け出していった。
闇と雨に包まれたそこはすぐにルクの後ろ姿を消してしまったけれど、ギィは彼が去った後の開けっ放しの扉をずっと眺めていた。
「…どうした、あの男が気になるかい?」
「いや。以前、俺もあいつと同じようなセリフを言った覚えがある。…あまり思いたくはないが、あいつは少し前の俺に似ているのかも知れん」
「それよりも、どうするんだい? 何もあたしは強要しないよ。例えあんたがフリメルダを救わなくても、誰もあんたを責めたりはしない」
「俺には金は無い。…記憶は、これまで大した経歴がある訳では無いが、俺にはどうしても無くしたくない記憶がある」
剣聖フリメルダが己の前に立ち塞がり、たったひとりでその剣で敵を倒した姿。
痛みも苦しみも全てが無に返った、あの一瞬の輝き。
目を瞑ると鮮明に蘇る、あの例えようのない美しさ。
決して忘れたくない、忘れる訳にはいかない、何ものにも変えられない大切な記憶。これだけは譲る訳にはいかなかった。
ギィの決意に感化されたのか外の雨足は一層強くなり、雲に覆われた空は稲光を放っている。ひと際大きな光が彼の表情をはっきりと写し出し、その口が覚悟を告げた。
「俺の、『命』を差し出そう」
「………いいカオだ」
ギィの言葉に満足した魔女は、恍惚として彼の姿に魅入っていた。
ガリークランの手元にフリメルダの治療薬が渡ったのはそれから暫く後のことになる。
その手紙には差出人名はなく、手がかりになるようなものは無かった。
(08.9.17)