なんとなく、予感はあったの。
あの人が『それ』を言い出すことは。
分かっていたのよ、分かって…。
この日も外は激しい雨が降っていた。グラスの町は元々雨量の多い地域では無かった筈だけれど、何時からか天気の変化が激しい場所になったような気がする。
そう、あの人。シドがこの町へ来るようになってからのように思う。
本人は気付いているか分からないけど、まだその性質が不明なところが多い、彼等の種族はその存在や感情がミストに影響を及ぼす何かがあるのかも知れない。
大体こんな日は私の事で気を揉んでいるか、もしくは彼にとって不本意…おそらくヒトを傷付けてしまうような任務を受けて、それを成功させて帰ってきたとき。
彼は任務に忠実で、残虐といわれる仕事にも着実にこなす。 その表情からは心情は読みとれず、一見彼を知らない者からすると無慈悲に映るかもしれない。 だが本来、彼は情熱的で誰より人の痛みが分かる人間だとあまり知られていない。 私とは違い本当は心の奥で葛藤し、人を傷付けるのを躊躇しているのを私は知っている。 そしてずっとそれを押し殺して組織に居ることも。
それでもこの組織に居続けている理由は…おそらくこの私。 そしてそれに気付いているのに気付かぬフリをしているのも私。 おそらく、この環境に彼が限界が近くなってきているもの分かっている。 分かっていて私は言わない。言わない理由は…
…彼が帰ってきた。 その体重に軋む床の音も、その身体から垂れる雨水の滴の音も、もう聞き慣れたものだった。 私から彼を出迎えるような事はした事がない。 いつも彼が帰ってくると私の居る部屋にやってきて、彼のお気に入りの長椅子にゆったり落ち着いてコーヒーを飲みながら寛ぐ。 私が相手をしなくても、私が居る部屋にいるだけで満足するらしい。
だが、今日は違った。私の部屋を通り過ぎて、別の部屋へと入っていった。 彼が私の存在に気が付かなかった訳ではない。 私がどの部屋に居ても、彼は間違えずに私を求めて部屋にやってきた。 つまり、彼の行動は『私に会いたくない』ということ。
たまにこういう事がある。彼にも一人になりたい時間はある。 だが今回は何かが違う、私の本能がそう告げていた。
私は部屋を出て、明かりも付いていないその部屋の扉を開けた。
彼が入っていった筈の部屋は誰も居ない。否、奥の洗面所から水音と僅かな光が漏れていた。
私が洗面所の戸口に立つと、彼は私に背を向けて呟いた。
「…イルーア、悪ィが独りにしてくれ」
私は何も答えず、彼の大きな背中を眺めていた。そこには大きな拒絶があった。 それは私へにではなく、彼に降り積もった『業』への拒否。 彼は私が立ち去らぬと分かると、私の側を通り抜けてベッドへと向い、ゆっくりと身体をそこへ横たえた。 物言わぬ背の側に私は座り、その少し冷えた腕に触れた。
彼には私に言いたくとも言えなかった言葉がある。それを聞く日は遠くはないと思っていた。
私はそれを聞くのが恐ろしい。
それは…彼が『カミュジャを去りたい』と言い出すこと。
それがどれだけ自分にも私にも負担になるのか、彼には分かっているからこそ、言い出せない。
何時からだろうか。何者も必要としなかった私が彼を欲するようになったのは。
自分でも気付かぬ内に、彼の温もり、優しさ、心に染み込むその声、全てが私の生活の一部となっていた。私がそれまで得られなかったものを彼は無償で与えてくれた。
『シドが居なくなるかも知れない』その予感が私の中で過ぎった時、とてつもない恐怖に襲われたのだ。そして、私にはそれを引き止める術が思い付かなかった。
彼が私を手放さぬよう、彼に必要以上に甘えること位しか出来なかったのだ。
「シド…このまま寝てしまっては風邪を引くわよ。シャワーを浴びる?それともこのまま私と…」
「イルーア。外に散歩しに行こうか」
「…外は雨だわ」
「行こうか、イルーア」
最早、断れない。私も覚悟を決めなければならない時が来た、というのが分かった。
私達はアジトの裏手から外に出て、降り止まぬ雨の中距離を取って向かい合い、無言で立ち尽くしていた。
お互い何が言いたいのかは、分かっている。
だがどこかで甘い期待を抱いていた私は、黙って彼の言葉を待った。やがて彼が重い口を開いた。
「…薄々気付いていたろうが、俺は組織を抜けようと思う。イルーア…俺と一緒に来てくれ!」
「出来ないわ」
「組織に狙われ続けることは承知の上だ。俺がずっとおまえの側に居て守ってみせる…!
ここを出よう、イルーア。2人で理不尽な任務をせずに暮らせる生活をしよう!」
「私には戦うことしか出来ないわ。知っているでしょ?
私が力を求めていることも。その為にこの組織が必要だということも」
「俺はお前が求める『力』以上の存在にはなれねぇってのか? 俺にはお前が必要なンだ。お前だって…」
一一一パンッ!
私が放った銃弾は、乾いた銃声と共に狙い違わず彼に届いた。私の目には手にした銃の銃口から漏れる煙と、見開かれた彼の青い瞳が焼き付いた。そのまま彼の身体はゆっくりとスローモーションを見ているかのように倒れ込み…。
あとは激しい雨音だけが残った。自分の頬を伝う雫の跡は雨水だと思いたい。
私が欲しかった『必要』だというその言葉。 でも私が彼を必要としていたのを知られる訳にはいかなかったのだ。 彼に、ではなく組織に。
私は銃を持った手をだらりと垂れ下げて、うつ伏せに倒れたシドを眺めていた。 するとそれを待っていたかのように、建物の影から一人のシークが姿を現した。 彼は一応私やシドからすれば部下に当たるけれど、組織上層部に通じていてこうして私達が裏切らないか見張っているのだ。シド本人はそのことを知らない。
私はシークがその背にエクスポーションの瓶をそっと隠したのを見た。
私がシドを始末できなければ、奴が私とシドに薬の効果を上げた逆転エクスポーションを仕掛けていただろう。
「いやいや、さすがイルーア様ですねぇ。長年の相棒さえも表情ひとつ変えず始末なさるとは」
「裏切り者は始末したわよ。さっさと組織に報告してはどう?」
「はて、何のことでしょう…?それよりアレ、どうしましょうか?」
シークの目が倒れたシドの姿を見遣った。
「イルーア様のお気に入りだったんでしょう?ご自身で剥製にでもして飾っておきますか?
いや、イルーア様に汚れ物の始末をさせる訳にはいきませんよねぇ、へへへ…」
「捨て置きなさい!それよりさっさと消えて!その醜い腹に風穴を開けられたいの!?」
「おぉ、怖い怖い…!とばっちりを食う前に退散させていただきますよ、ハイ」
こそこそとシークが姿を消すと、私もシドを背にアジトへ戻って行った。
戻る途中、さらに強い雨音が私に追い打ちを掛け、つい振り返りそうになった。
こうしている内にも雨は彼の体温を奪い、その色を赤く染めていることだろう。
振り返ってはいけない、振り返ってはいけない…。
もうあそこに私の居場所は無くなったのだから。
その夜、ひとりベッドで枕に顔を埋めた私の側で、私の意志とは関係なく『グリモア』が私の凶行を書き綴った。まるで私の行為を非難し、追いつめるかのように…。
「シド、あなたは何も言わずに私をここから強引に攫ってくれれば良かったのよ…!!」
*
誰も居なくなった場所に、雨に打たれ続けるシドの姿があった。その手がグっと地面の泥を掴む。
その側にはヒラリとマントを付けた鎧姿のジャッジが居た。
(一一一気が付いたかな? …シド。私と契約を誓いさえすれば、まだ助かるぞ)
「…アンタがジャッジ、か。初めて見るぜ」
(一一一さあ、契約を)
「どうやって出てきたか知らンが、このまま死なせてくれや…。
イルーアに不必要と思われて…生きていても仕方がねぇ」
(一一一彼女がそう言ったのか? 私は彼女が事前に掛けていた魔法でキミの側に現れたんだがね)
「イルーアがジャッジを…!?」
(一一一こうなることを予見していたんじゃないかな?
キミが知っていたか分からぬが、彼女はジャッジについてもよく研究していたのだよ)
魔法のことはシドにはさっぱりだが、イルーアが何やら古い本を読み漁っていたのは覚えていた。
そのイルーアがシドにジャッジを付けた。
それはすなわち、彼女がシドに生きていて欲しいと願っている、ということ。
「俺をまだ必要としてくれるのか、イルーア…。ジャッジ、頼む。俺を助けてくれ!」
ジャッジが頷くと、2人は強い光に包まれてその場から姿を消した。
シドがジャッジ付きクラン『ガリークラン』を創ったのはこのすぐ後のことであった。
(08.6.11)